現象学

精神医学では「先入観を排除して(エポケー)虚心に相談者の内面心理を記述する立場」を記述現象学的と呼んでいる。「被害妄想」と書けば記述者の判断が混入しているので、そう書かない。細かに相談者の語る言葉をなぞる。それが現象学的記述である。
哲学ではフッサールから始まった。フッサールの本は難解。ディルタイ、ハイデガー、メルロポンティ(たとえば「知覚の現象学」)、リクールと連なる山脈も難解。精神医学関係ではビンスワンガー(これはハイデガーとフッサールの融合)、メダルド・ボス、ブランケンブルク『自明性の喪失 — 分裂病の現象学 — 』、日本語でしっかり読めるものは荻野恒一、木村敏がある。よく知っている人に最初の手ほどきを受けなければ理解には時間がかかると思う。
現象学的還元や本質直観(本質観取)、Interpersonal Subjectivity (間主観性、あるいは相互主観性)といった用語が飛び交う。使われているうちに少しずつ意味がずれてきたりするのでさらに難解になる。その言葉の意味範囲を考えて、話者がどのあたりの意味を込めて語っているのか推定できるようになれば、話は通じるようになる。
現象学的精神医学は人間学的精神病理学と同じ意味で使われることもある。脳病還元主義と異なり、人間学的精神病理学では病者をもっと全体的、人格的、状況的にみていこうとした。たとえば、症状は脳が壊れているのではなくて、人間の叫びだというのである。症状を言語として誰かに何かを伝えようとしているのであるとする。親の進める縁談を受け入れることができないから、食事が「飲み込めない」のだという説明が載っている。
そもそも自然科学の基本は測定することである。暑い寒いを気温という客観的共通尺度で測定できるようになってはじめて厳密な科学が始まる。精神現象を科学するためには測定しなければならないが、どのように測定したらいいのか、まだ分からない。右小指の異和感を正確になんと表現したらいいのか、言葉が見つからない。ましてや客観的に測定することはできない。昨日より今日は妄想が激しいようだが、1.5倍なのか2倍なのか、測定しようがない。うつ病の場合に言葉が少なくなるので、20分で何語と数え、逆に躁病では何語と数え、それを「測定した」とはいわないだろう。精神現象は何かの頻度や反応時間を測定して理解するものではなく、人間学的・共感的に了解するものだと考える。
測定不可能な精神現象の科学のために現象学的記述を行い、現象学的還元を方法として本質を直感する。それは客観的数値をグラフに書いて数学的操作を施すことと同じくらい確かなことである。(あるいは確かであることを目指す。)
最近は流行ではないのであまり声高に取り上げられない。
他人の意識は存在しているかという根本的な問題もある。素朴に存在を仮定して間違いはないと思うのが常識だろう。われわれは他者の気持ちになって思考し感覚することができる。その方が集団の中で生存確率が高まるのではないかとの説がある。
言語という共有物によって思考し感覚しているので、他者が出現するとも考えられる。