共感と教育

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5月20日、勉強報告会。

治療者にとっての共感の意味、患者さんにとっての共感されるという体験の意味の重要性を再確認しました。
また、病気についての教育では、症状があるために適切な考え方が困難になる場合があることを伝えること同時に、特定の治療を行うことでスキルを与えることが重要とされています。

水島先生は論文の中で、患者さんや家族が潜在的にもっている力は大きいこと、「共感」と「教育」は、患者さんやその家族が持つ自然治癒力を引き出す効果のあるものと述べています。

ーー
精神療法の中には
認知療法・行動療法
精神分析療法
森田療法
内観療法
対人関係療法
論理療法
ロジャースタイプ
その他いろいろとある

共通の部分もあるし
独自の部分もあるのであるが

カウンセリングである限り共通の部分はやはりあり
「共感」とまとめてよいようだ

各種の特殊療法の専門的技法以前の部分であり
傾聴する態度とか
共感的な感情の動きとか
人間としての温かさとか
礼節とかまたは親しさとか
治療構造の設定とか
無条件の肯定的関心
治療者側が患者側にどのような影響を与えるのか自覚的に扱うこと
などである

一方でそれぞれの専門領域で扱う専門技法は「教育」とまとめてよいようだ
各技法でそれぞれに考え方・仮説・進行方法があり、
それは患者さんに理解していただかないとうまくいかない
教育がなくて結論だけを受け取っているのでは
精神療法としては不十分なものだろうと思う

このようにして精神療法における非特異的因子を「共感」、特異的因子を「教育」と言う言葉で
代表させて考えてみると

非特異的因子が特異的因子の前提条件になっていることが理解できる

教育内容としていい内容を伝えたいと思っても
非特異的因子の部分で欠落があれば
うまく伝わらないだろう

軽度の患者さんの場合には
特異的因子によらず
非特異的因子のみで
つまり、充分に受容されて共感されたと体験するだけで
それから後は自分で歩いていくことができるようになる

ーー
各種精神療法があり
その中で、患者さんごとに最も有効なものがあるはずである。

従って、医師とカウンセラーのバッテリーを組む場合、
医師の側が、どのタイプの精神療法で治療するかを指定することがいいと思う。
そのためにも各種療法に対応できるカウンセラーを用意できていれば
治療の効果は上がりやすくなる

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治療契約または治療構造の要素として時間が大切だ

特に初診時での充実したカウンセリングが勝負を決めることが多い

外来が混み合ったりしていて医師とカウンセラーの側が時間を焦ると
患者の側は見捨てられるのではないかと不安が高まり
しがみつきが起こる

そのようにして不安が高まるタイプの人なのだと診断がつくわけだが
それは診察としては良質ではない

不安が表面を覆っていると有効な治療的コミュニケーションが成立しにくい
診察室の中では不安が減少するように配慮する
これが非特異的治療因子の第一であり
これがないとその先に進めない

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罪悪感・自責は自殺に結びつく要素でもあり、
丁寧に扱う必要がある。

共感的傾聴・無条件の肯定はこの点で患者さんの罪責感を解除する作用があるので
非常に大切である

行動変容が利益をもたらすことは明白であるとしても
それができないことについて患者さんは大きな罪悪感を持っていて
自分を責めている
その状況で行動変容をアドバイスすることは
技法としては正しいものの
罪悪感を亢進させてしまう
「行動変容ができない」現状について受容し、できれば、できない要因を分析できれば、
そのこと自体が、受容と共感となるはずである

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患者さんと治療者の双方が「腑に落ちる」「納得できる」「すっきりした」
そのような交流状態をつくりたい

それは科学的に正しいものでなくても充分である
たとえ話でもいいし
暫定的な仮説でもいい

客観的に正しいが受け入れにくい仮説よりも
治療室の内部でだけ許される、共通理解でよい
出発点はそれで充分である

そのようなローカルな話なのだと治療者は理解する必要がある
そうでないと
治療者がこれは「仮説」なのだということを忘れてしまい
「固い真実」だと思い込んでしまう

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「なぜ」の質問は
答える人を追い詰める

子供はなぜを何回も連発して親を困らせる

「なぜ」と問われて「知らない」「答えない」と言えない人に
「なぜ」と問い続けるとその人を壊してしまう

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教育という場合
疾病教育の患者教室や家族教室が原型となる
個別に診察室で教育するときも話す内容としては類似のものになる

疾病教育という態度で接する限りは
患者さんの内面に踏み込むことがない

このことは治療関係が成熟していない期間においては
大変有利な点である
疾病教育を語り、理解を確認していく中で、様々な情報が得られる

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質問紙を利用すると
患者の内面に不用意に踏み込むことが少ないので
これもよい方法である

内面に関する重大なことを書いていたとしても
治療者の側としては
それを飛ばすことができる

その上で、一つ一つの項目について確認していくのは
しっかり受け止めていますというメッセージを送ることになる

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水島論文の中で述べられている次の部分は興味深い。要約すると、

「私は人に嫌われている。」

「どうして?」

「向こうから連絡が来たんだけど、返事しないで、そのままにしておいたら、
それきりになった」「向こうが自分に関心があればまた連絡してくるはず」

この場合に、「こちらから連絡してみたらどうですか」というだけだと
否定された感じがする場合もある
受容されていないと感じる場合もある

「うつ病のときにはそう考えますよね。それがうつ病の症状ですから。
そう考えるとつらいですよね。
うつ病でなければ、簡単にこちらから連絡が取れるんだと思うんですよ。」

というやり取りにする。
すると、「こちらから連絡するのはつらい」という患者の現状に対して
「うつ病」という項目を挟み込むことによって
受容・理解・共感することができるし、
その先の方向についても
「うつ病が治ったら、どうするかな」という話の中で
患者自身から引き出すことができる。

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病気には理由があるはずだと患者さんは考えている
理由がある場合もあるしない場合もある
理由があるのかないのか分からない場合もある

しかし不安を軽減するには
共通理解の領域を確保することが得策である

暫定的な理解でいいし、
その人の背景に合わせたものでよい

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特定の精神療法は概して「教育のプロセス」であると言ってよい。

強い教育は洗脳であり
弱い教育は影響である。

治療者の強いオーラが患者を治すという場合も少なくない。
その場合も、そのことを治療者が自覚的に用いている限りでは問題はない。

言葉の背景にある
態度や表情や仕草も教育的効果がある。

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治療は教育なのだと考えれば
精神療法に依存する患者さんを作らないですむ。

結論を与えるのではなく
結論に至るまでの方法を与える。
あるいは結論に至ることを邪魔しているものを
取り除く方法を与える。
そこから先は自分で歩いていける。

ーー
結論を提示するのではなく
結論に至るプロセスを細分化して提示する
その中で患者さんは
泳ぎ方、魚の釣り方を覚える

治療者は不安を取り除くのではなく
不安を取り除く方法を教える

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「~してください」というのではなく
「~を大切と考えると結論はどうなりますか」と導く

判断の基準を示し
決断の再現ができるようにする

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短期精神療法が成立するのは
方法を教育するからである

その意味では教育の感覚がなければ
終わりなき分析になってしまう可能性がある