官僚・マスコミの制度再設計

官僚とマスコミの問題は、簡単ではない。

イージス艦の衝突も、官僚とマスコミの問題がある。
情報統制もできない組織が果たして戦争ができるのかと大いに疑問。
わけの分からない切り口のマスコミも疑問。

医療についても、法律関係の官僚、医療制度関係の官僚、マスコミの問題がある。
医療荒廃の問題はどこにあるかと議論するとき、
このあたりにも批判が集まる。

しかし、官僚は官僚なりに一所懸命やっているのであって、
ただ、その成果は、常に官僚組織のためになり、
ときどきしか国民のためにならないことが問題だ。

マスコミもマスコミなりに一所懸命やっているのである。
しかしその成果は、常にマスコミのためになり、
ときどきしか国民のためにならない。

それぞれが、それぞれの事情の元で、最善を尽くせば、
神の見えざる手によって、
全体として、全体が幸福になるだろうという構図が、一部破綻している。

ここで、官僚は国民のためにとか、
マスコミは国民のためにとか言うのは、
幼いというしか、ない。

あるいは、結局既得権を守るために、発言しているとしか思えない。
もう良心なんかに頼るのはやめよう。
良心的であったためしがない。

しかしどうだろう、それぞれの内部では、それなりに努力しているのだ。
愚かな振る舞いをせざるを得ない制度を放置していることが問題なのだ。
真に国民のためにと思ったことが報われるような制度を工夫しよう。
難しいだろうが。

制度設計として、
官僚組織の利益と、今民全般の利益が一致するように設計を考える。
そうすればあとは、各自が思いっきり、それぞれの事情に従って頑張ってもらえばいい。
マスコミの利益と、国民の利益が一致するように、制度を再度考える。
その後は、マスコミさんは勝って放題に目だってくれればいい。

制度を設計するときに、誰かの良心とか信義とか、
そんなものははじめから除外することだ。
人間は常に最悪のことをすると前提して、制度設計した方がいい。
そして能率が悪くてもいいから、
最悪を回避する制度がいい。

能率が悪くても、最悪を回避する制度、
それが普通選挙による議員の選出と、
議員による内閣と行政の構成であると考えられる。

能率のいい制度を考えるなら、
「良心的」で能力の高い行政官と立法官を何人かおけばいいだけなのだ。

鳩山さんでも南野さんでも法務大臣ができるということが、
そもそも何か大切なことを教えてくれている。
これは能率が悪くても、最悪を回避している事例である。

真に国民のためにと言っても、国民はいろいろいる。
そこで、立法も行政も、国民の真意はどこにあるか、推定する。
マスコミの発表する国民世論アンケートは、
勿論、ただの数字だ。
ある程度は操作できる。
官僚やマスコミの人たちと国民は、
握っている情報量が違う。
そうすれば、違う景色が見えてしまう。

理想的な国民が、
充分な情報を与えられて、
充分な理性を持って判断すれば、
どう判断するだろうかと推定して、
立法も行政も判断しているはずなのだ。

現実の国民はなにも知らないのだし、嘘を知らされているのだし、
わがままで、強欲で、
とても付き合いきれない。
だから、理想の国民を相手にして、彼らは対話しているのである。

そしてそのあたりですでに自分に都合のいい世界ができてしまっているのだ。

現代社会では、情報の多い者が少ない者を支配することができる。
官僚はマスコミを、マスコミは国民を、情報を管理することで、管理することができる。
もう暴力は眠らせておいていいのかもしれない。
それは権力成立当時の昔話だ。

ロシアのプーチンが大統領になる過程では、
秘密警察の権力という、
情報能力が最大限に発揮されただろう。
選ばれたのは柔道家のプーチンだった。

力の強いものではなくて、
情報操作力のある、頭のいい者が支配者になる。
面に立ってテレビ画面から国民に語りかけるのは、また別の役者である。

頭がいいと言っても、いろいろな方向があり、
本質的に頭が言い物理学者や数学者は、
勿論統治者には向かない。

人心を掌握する術も、
広場で演説する人に拍手を送っていた時代と、
マスコミでメッセージを送る時代とでは、
違うものになる。
そして、官僚の間の利益を調整する能力はまた別の次元の話で、
これこそが現実の政治では、中枢の権力なのかと思うが、
今はどうなのだろう。

昔は、各官庁は独立主権国家のようなもので、
誰かの命令にただ服従するということはなく、
各々が利権の構造を築き、温存していた。
少しずつ変わってくれればいいと思う。

マスコミをいったいどうしたらいいのか、
展望はあるのだろうか。
中国みたいに、「××」の情報流通は禁止と決定が出ると、
いっせいに、放送からインターネット検索まで、消されてしまう制度設計も恐ろしい。

今回のイージス艦の話など、中国ならニュースにもならないかもしれない。
ニュースになるだけいいのだけれど、
もっと頭のよくなるようなニュースを希望する。

マスコミは宣伝媒体として存在している面もあり、
そのことと、国民の知る権利とのぶつかり合いがあると思う。
編集権というものは、制限の実体のない恐ろしいもので、
捏造も偏奇もふくめて、いかようにでも可能であることを今まで現実に示してきた。

しかしそれは我々自身が個人で体験して歩くときでも同じで、
限られた体験の中から、自分で編集して、内部構造を考察して、納得しているのである。

同じようなことを各種マスコミもやっているのだけれど、
果たしてどうだろうか。

番組会議をするときに、
どんな番組を作ろう、そのためにどんな映像が欲しい、
それをあそこにいくらで発注しよう、みたいな発想になっているらしい。
下請けは捏造するわけだ。

情報を集め、事態の全体像を把握し、
それを映像に構成し、スポンサーと折り合いをつける、
そこまでのことが、個人の良心の内部で一貫して行なわれるとは考えられない。

やはり制度の再設計が必要と思うのだが。
どうすればいいのかは、まだヒントがない。

制度変更でいえば、アメリカの裁判制度を例としてあげることができると
思う。
簡単に裁判になって、陪審員が何か考えて、決める。
裁判制度には、いくつかのタイプがある。
マスコミにはいくつかのタイプがあるというわけではない。
受信料徴収型とCM放映型があるということだろうか。