自己愛の発達の話でいうと
成長するとか大人になるというのは
自分が持っているどうしようもなく巨大で愚かな理由のない自己愛と
同じくらいどうしようもなく巨大で愚かで理由のない自己愛を
相手の人間も持っていると知り、
それが傷つけられたときにどんなにいやなものであるかもわきまえ、
謙虚に接することができるということだと思う。
ドストエフスキーが罪と罰で描いたのは
自分が全能の審判者になって
老女の命と財産を奪ってもいいと
合理化する青年だった。
役に立たない、むしろ社会に害悪を及ぼしている老婆と、
全能感に満ちている自分とは、
同じ平面に属していない。
しかしそこでよく考えてみて、
老婆も自分も同じ平面に属しているのだと知るのが成長である。
人によっては宗教の助けが必要で、
ラスコーリニコフの場合はそうだった。
また同時に異性からの献身的な愛が描かれている。
話はそれるが
ドストエフスキーにしても
ゲーテにしてもさらにワーグナーにしても
本当に都合良く
無垢の乙女が愛を捧げて
それまでしたい放題をした男が救われるという話で
ばかばかしい次第ではある。
それはいいとして、
神の前に跪くのでなければ、
法の下の平等でもいいし、
博愛でもいいし、
とにかく、
青年に老婆を殺す権利などないと明確に知ることが
大人ということだ。
これはエリート教育の中では繰り返したたき込まれる面がある。
なにより立派な師と先輩を見ていれば、
自分もそのように振る舞いたいと思うはずである。
将来「老婆」、つまり社会的弱者を「殺す」つまり搾取しかねない人間には
そのように教育してきたと思う。
現代でそのような師や先輩の姿がどれだけ見えているのか
気にはなる。
たとえばインターネットの中で話し合っている人たちは
何となく師でも先輩でもない感じで言い合っている感じがする。
巨大で理由のない自己愛を
社会に容認されるアイデンティティに変容させる機会が失われているのではないかと思う。
そのために甲子園があり
大学研究機関があるのだと思う。
その期間を理由のない巨大な自己愛が社会に容認されるアイデンティティに変容することなく過ごして、
社会に出るので、そこではかなりつらいことになる。
上司がみんな教育的に接してくれるとは限らない。
期待されるレベルに達していないときには拒絶される場合もある。
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そのあたりの訂正がずっとできない人もいるわけで
たとえばエリートさんの中には
戦後憲法が悪いとか、日教組が悪いとか、権利意識が悪いとか、
本気で思っている人もいて、
自分と他人は原則違うのだと信じているらしい。
確かに実務能力の面では優れているのだろうが、
そのような人たちにどのように納得してもらうのか、
いざとなって新聞も社会も適切な言葉を持たず、
エリートさんにしてみれば、それみろという感じだろう。
結局、選挙民の同意が得られないからという理由で引っ込んでもらったようで、
これではそのエリートさんの巨大で理由のない
自己愛を次の段階に進めてもらうことにはならず、
エリート一家の中で巨大で理由のない自己愛は保存され続けるだろう。
世の中が馬鹿だからどうしようもないと
思うかもしれない。
もちろん、そんな簡単なからくりではなく、複雑なこともあるのだろうけれど。