オバマ氏のことで
遺伝的に遠いもの同士を交配した方が優秀な子孫ができるという話になった
人間に関して、稲の交配みたいな用語を使うのは適切ではないが
まずまずそんな傾向はあるかもしれない
優秀という言葉の内容をどう定義するかによるわけだが
たとえば100メートル走とか知能テストとか
そんなものなら確かにかなり遺伝しそうである
我々が人間として期待する能力は多分そんなことではなくて
思いやりとか温かさとか利他的とか
そんな項目だろう
特に最近のように「優秀な人」がgreedでいいのかという
反省が出ている時期にはそうだろうと思う
遺伝的に近いもの同士の例でいえば
日本では東大生同士の夫婦で子どもも東大に進学したという例だろう
東大生の親が収入が多くて高学歴だという統計は以前から議論されている
その場合の優秀さというのは多分
几帳面とか熱心とかそんな特性に関係していて
それならば遺伝もするだろうと思う
スポーツが得意な人同士の結婚による子どももそうだと思う
相撲界でもある
学力テストで見ている優秀さがどの側面なのかという問題もある
ほんとうはテストで見たいのはいままでどれだけ努力したかではなく
これから教育すればどれだけ伸びるかだろう
経験的には主に論理操作能力と数学能力が将来の伸びに関係しているとされていて
それを測定したいのだろう
よく言われることとして英語の試験で長文を読解して全体として何を言いたいのかとか
テーマは何で、それに反対なのか賛成なのかとかそれが大事で、
Itは何を指しているかとかそんな細かいことはいらないなどの議論がある
実社会で必要なのはもちろん前者で、
相手の会社から送られてきた英語の文書がいったい何を要求しているのかが大事だという
論理だと思う。
しかしそれは一面のことであって、後者はItは何を指しているかと考えてもらうことで、
その人の論理操作能力を見たいとする立場である。
英文の全文を要約してくださいという試験ならば帰国子女が良くできるに決まっている。
そういった意味での学力を測定したいのではない。
たとえば現代国語でもそうで、
文章の筆者自体が解けない現代国語の問題などもあるそうだが
それは筆者が何を言いたいかとは別で、
論理操作能力を試しているつもりの、出題の意図をよく理解しなければならない。
先日友人と話をしていてトンボ玉のことを聞いた
ガラス棒に色を付けて、それをとりあえずは金太郎飴みたいに延ばしたりして、
その後で丸めたりするらしい。
ガラス工房などでよく見かける感じの図。
そんな作業で果たしてどんな手順でこのトンボ玉ができるか
一日いろいろやってもらえば、
その人のある面の能力は測定できるように思った。
上の写真の真ん中のデザインとかは
典型的なものであるが
どうすればできるのだろう。
イメージがわきますか?
そんなことは生きることに関係ないと感じるならそれでもいいと思う
人生で何の役にも立たないというなら多分そのような人生を生きるのだろう
世の中がどんな優秀さを求めているかも時代によって違うと思う
いま現在でいえば
「優秀な人」があまりにGreedで害が大きかったと反省している時期になる
遺伝的に近い遠いなどというと
いかにも種馬の話をしているようで良くないのだが
しかし
近いといっても遠いといっても所詮は人間で大きな違いがあるわけでもなく
計画されたものよりもむしろ偶然による変異の方が大きいような気がする
だから親がどんなに貧しくても親の学歴が低くても
教育にお金をかけることができなくても
優秀な子供は生まれるし
学力試験で成績が上がらないとしても周囲の人を幸福にしていると思う
遺伝よりも突然変異の方が力が大きいと思うこともある
現在の社会を計画している層が
自分たちの子どもを優先したいと考えれば自然に優秀さはダウンするし
社会全体を優秀に保ちたいと考えれば自分たちの直接の子どもたちには我慢してもらうことになる
鎖国をしている時代はそれでもよかったが
多国間で競争をする場合には
自分の子どもを優先しているようではうまくいかないだろう
自然に考えれば人口が十倍以上いる中国には日本の十倍以上の人材がいるはずだ。
現在でも科学技術系論文は米国に次いで二位の数を発表している。
人間が集団でいる限り、
個人の能力とは別に
他人に影響を与える能力がある
他人をリラックスさせるとかやる気を出させるとか努力を方向付けるとか
そのような資質は個人を測定しているだけでは分からない種類のものだと思う
社会性とか集団性能力はまた別の次元のもので
他人の能力をうまく引き出せるというのは
現実には大きな能力である
逆に言えば他人がいなければ何もできない凡人だと思うのだが
そのあたりも考えると
優秀さにもいろいろあって
簡単に測定できるものでもないだろうと思う