自己決定権

「わたしは寝付きはいいから、ハルシオンはいらない」と言い張る人がいる。「自分は中途覚醒型だから」といいつつ、「朝起きられない」と訴える。「あなたの場合の薬剤の選択は……」と説明するが分かってもらえない。睡眠障害ではなくて、思考障害だと診断がつく。
しかし無理もないことだ。断片的な情報をもとにして自分なりに判断しているのだから。

たとえば、自分がそんなに詳しくない分野について、どのように判断しているか、思い返してみる。
料理とか法律とか環境問題とか、自分が専門でないことについては新聞を素直に(ナイーヴ)読んで、なるほどそういうものかと思ったりする。しかし医療の分野については、これは編集の人と医者の誰が企画したものだろうとか、記事の内容についても偏りがあったり、大切な情報を伝えていなかったり、話題をクローズアップするあまり、「これで決定!」という扱いのこともあると感じる。専門の医療分野についてはある程度厳密な(critical)読み方ができるということだ。しかしそれ以外の分野についてはただ受け入れるしかないのが現状である。書かれている記事が、専門の現場でどのように受け取られるものかまでは分からない。新聞でもそうだから、インターネットではなおさらである。
患者さんが睡眠導入剤について、公式的な・一行豆知識的な関心を持つのは最初の一歩としていいことだ。しかしそれで最終判断までしてしまうのは危険である。
自分の体調・体質・心理傾向について知る。同じ薬でも人によってかなり効き方が違うし、同じ人でも体調によって効果は異なる。治療の最後までイメージして最良の選択をする。そのあたりまで勉強してくれるならありがたいのだけれど。
誰もが最初は初心者である。そのようにして最初の一歩をはじめ、経験を深めてきた。

話を拡大するとパターナリズム〈教父主義〉と自己決定主義の対立になるだろうか。
宗教の世界でも、未熟な自分が判断するよりは偉大なる存在に判断をゆだねようとする考え方があった。
その場合、最終的にゆだねようという判断は自己決定であるから、大きく言えばやはり自己決定しているのだと言えるのだけれど。その場合、知識を確実なものにするのではなく、自分の運命を誰にゆだねたらいいのか、人間を見る目を養うことが大切になる。

直接人間を見て直感的に人間を判断する感性を人間は長い間養ってきた。それに成功した人が生き延びてきたのだと進化論的に言ってもいいかもしれない。現在のように情報だけが、人格印象をまとわずに飛び交う状況になると新しい淘汰の時代だと感じる。
日本語ならまだしも、英語やドイツ語のサイトを見て、人格の手触りまで感じ取ることはなかなか難しい。