共感と傾聴

共感と言っても
簡単ではないし
どこまで共感すればいいのか
患者さんはそれでいいと言ってくれたとしても
治療者としては専門家としてそれでいいと安堵するわけには行かない

人間である限り分かる部分もある
他人である限り分からないはずの部分もある

正直に言うが
共感を説教する生身の人間が
一日何人に本当に共感出来るというのか
教えて欲しい

一時間にひとりずつ
一日5人くらいに共感するとして
そんな途方もないことができるものだろうか

無理に決まっているのである

何しろ患者さんの時間は凝縮されているのだから
少なくとも一週間分を一時間で共感するなんて
どう考えても無理ではないか

しかしまた
全然共感しない人よりは
比較的共感しているとはいえるとおもう
その程度でいいのなら
一日何人でもできるだろう

共感なんて言っても
妥協の産物でしかないのだ

アインシュタインの孤独には共感できないだろうし
シェイクスピアの焦燥には共感できないだろうし
大伴家持の憂愁に共感できると言い張ったとしても
たぶん家持の方で聞こえない振りをするだろう

人間には体験の差もあるし知能の差もあるし
体力の差もあるし
共感を妨げる要素は多い

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傾聴も同じ

言葉通りの傾聴なんて出来る人がどこにいるだろう
傾聴しているとして
頭の中は自分勝手な想念が飛び交っていると
言えないこともない

できるだけ、可能なだけ傾聴しているだけであって
その妥協ラインは
治療者の良心とか矜持に委ねられている
つまりはどれだけでも堕落できるのだ

朝9時から傾聴したとして
どれだけクールダウンすれば次の傾聴ができるだろうか
たぶん職業としては困難だろう

堕落した反省のないものだけが
共感だとか傾聴だとか反省のない言葉を口にできる

おめでたい話なのである

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こうした現実を反省した上で
技法は発達する

たとえば人間は驚嘆するような工芸作品を作り出すことができる
そのような職人芸が精神療法の領域でも
成立する可能性はやはりあるのだ