濃密な時間を生きる人

人生は長く生きればいいというものでもない。
それならば、若くして死んでしまった人はかわいそうすぎる。

人の話を聞いていると、
「この人はよくひとつひとつ考えて生きている」と思うことがある。
時間を濃密に体験しているのである。

なにが違うのだろうかと考えている。

このような人は、ぼんやりしている人の何倍も人生を生きているはずで、
20年しか生きなかったとしても、
この世の思い出は60年分くらいありそうな気がする。

言葉で言えば、
物事の内的連関を感得する
というあたりかもしれない。

しかしながら、
体験を言葉で伝える能力がないと、
このように他人に感じさせることはできない。

人間は他人に話をするために生きているのではないのだから、
人生を濃密に体験していても、
別段誰に話すでもない人がいくらもいるのだろう。

体験する能力と、表現する能力は、別のものだ。

体験する能力といっても、
深く体験して、脳の奥底に大切なものが刻印されたとしても、
それを他人に話さないどころか、
自分でも実感していない人だっているだろう。

それでも、脳のどこかにしっかりと刻まれている。

そう考えれば、みんな平等に、深く体験しているのだとも思う。
何しろ同じだけの時間を生きているのだから。

食べる量も、歩く量も、たいして違わないのだから、
多分、体験の深さも、あまり違わないのかもしれない。

それをうまく表現できる人と、表現しない人と、表現できない人と、
表現の必要を感じない人と、いろいろいるのだろう。

作文に書くことが一杯あった夏休みと、
そうでなかった夏休みと、
あるな、やっぱり。
そう思う人は人生に対して受動的なのかもしれない。
能動的な人は、楽しいことがなければ、見つけようとするだろう。
結局、作文は楽しいものになるだろう。