Evidence Based Medicine と真理の源泉

あなたは何を根拠にして、ある言説を真実だと判断するだろうか。

たとえば、ある人は診察室で、「この健康食品は本当に効くだろうか」と尋ねるのである。

真理の源泉はおよそ三種があると思う。

1.自分の直接体験。しかしこれは普遍性がないし、再現性のない場合もある。極端に言えば、幻覚妄想の場合もある。しかし自分の直接の体験は否定しようのない強さを持っている。自然科学は直接体験を根拠としている。ある実験を提示して、それが再現可能で追試可能であるこことを伝える。別の研究グループは追試をして確認する。そのようにして直接体験が蓄積され、真実として認定されてゆく。

2.ある集団内の言い伝え。ある集団内で共有される常識。これは自然科学的真実とは次元を異にする。ガリレオ・ガリレイは集団内の常識と科学的真実の間で苦しんだ。自由意志は存在すると「自然な思考」を共有しているのもこの一例。根拠はと言えば、「みんながそう思っているから」としか言いようがない。多数決の原理と言ってもいい。すべての人が自分の判断に確信が持てるわけではない。むしろ、強い確信を持ってしまう場合は、何か「病的」な場合も多い。多数の意見に自然に従っている態度がもっとも「健康」と言えないこともない。

3.啓示体験。これは超越者から直接に真実を明かされる体験である。これについては誰も否定できないし、第一議論を拒否する。追体験もできないし、検証もできない。しかし宗教の始まりにはこのような真実がある場合が多い。そして人々はそれを受け入れ、次第に第2の真実、すなわち、「共同体の共同主観」に変容する。

Evidence Based Medicine は当然第一の「直接体験を洗練した実験という体験」を根拠としているのであるが、第二タイプの「共同主観」も第三の「啓示」も、無視している。
自然科学としてはそれでいいけれど、人間が苦しむとき、第二タイプ、第三タイプの真実が絡んでいることも多い。多くはそれらを「幻覚妄想」と断定するわけだが、それでいいはずはないだろう。自然科学的な悩みだけが悩みではない。腎臓のトラブルとこころのトラブルは自ずとカテゴリーが異なるのである。