narrative based medicine

たとえ話は危ないものだというたとえ話をしたい。

精神機能をコンピューターでたとえてみよう。
脳→常識(言語システムや宗教)→個人的体験(医者に対して話す内容)
ハード(CPU=たとえばインテルP4、ハードディスクなど)→ソフト(WindowsXPやワープロソフト)→コンテンツ(画面に表示されるもの)
とたとえることができる。
コンピューターで表示がおかしい時、いろいろな原因が考えられる。1.ハードディスクが故障したかもしれない。2.ソフトにバグがあるのかもしれない。3.入力ミスがあったのかもしれない。

整理すると、以下のようになる。
1.ハード=脳の異常。これは精神病としておく。精神薬理学の得意分野である。ドーパミンやセロトニンの話である。
2.ソフト=常識(日本語)の異常。これは神経症の一部としておく。対人恐怖症など。土居先生が「甘えの構造」などで「日本語」を考察した。それは日本人の独特の精神病理に関係している。ソフトのバグを修正すればよい。またたとえば、ある宗教がこうした精神病理の発生の素地となることがある。
3.コンテンツ=個人的体験の異常。これも神経症の一部である。たとえば、幼児の性的虐待など。精神分析はこの部分を主に扱う。

このようなたとえ話は面白い。しかし本当に理解に役立っているのか、怪しい。脳の側からの解明ではないからだ。
昔は電話交換機が脳と精神の説明に引用された。その時代の花形の機械が脳の機能にたとえられるのは時代を通じて同じらしい。

昔あったワープロ専用機をもっと突き進めれば、ハードとソフトの一体化を考えることができる。ハードディスクビデオ録画機はコンピューターの機能を特殊化してバードとソフトを一体化してものと言える。ときどきソフト部分のバージョンアップがある。
ワープロソフトも、印刷などの言語によらない部分と、日本語変換機能とに分離して考えることもできる。
脳にある言語がインプットされる場合も、チョムスキーの言う深層文法は脳の構造としてあらかじめ内蔵されていて、その上に、日本語、英語などの各言語が乗っているらしい。だから、どこまでが脳でどこからが言語システムで、といった区切りは難しい。

evidence based medicineに対してnarrative based medicine が言われる。EBMはたとえて言えばハードよりの学問であり、NBMは個人的体験よりの臨床であると言えるだろう。互いに補完する概念といわれる。EBMでは統計的事実を背景として個人を統計的観点でみることがあるのに対して、NBMでは患者の個人的体験と言葉・解釈に寄り添い、患者自身の物語を深め、時に別の角度から編み直す。