インターネットとこころの悩み

インターネットとこころの悩み

 現代日本に生きる我々にとって、インターネットや携帯は心理的環境の重要な一部であり、こころの悩みの原因のひとつとなっている。実証的な記述ではないのが残念ではあるが、以下に要点を記したい。

Ⅰ ネット社会の特質

 ネットや携帯が社会不安を拡大していると議論され、ネットと携帯は現代の「悪のゆりかご」の印象がある。特質を次のように抽出できる。

A 匿名性

 匿名だから卑劣なことを書くのだと思われているが、実は匿名性はすでに見かけ上のものである。自分のことを書かれた個人にとっては、誰が書いたのかを知ることは心理的ショックの直後でもあり億劫であるが、気持ちを立て直して「プロバイダ責任制限法」により削除を請求し、情報開示を求めればよい。ネット上に請求の書式があり費用はかからない。
 発信側について言えば、現実のその人からは考えられないくらいの過激な言葉を書いていて驚かされる場合もある。以前は自動車を運転するときに突然普段の人格からは考えられないような攻撃性を見せる人がいて話題になったこともあるが、ネット上でも、現実人格とネット人格に段差があるのではないかと思わせられる例もある。受信側について言えば、韓国での事件のように自分について書かれた言葉に絶望して、命を絶つ場合もある。ネット被害から自分を守る方法を学び、周囲は心理的支えになりたいものだと思う。

B 孤独

 鳴らない携帯は孤独を突きつける。そばに話せる人がいないから携帯に閉じこもり、書いてはいけないことを書いてしまうものだ。一般にメールやネットでは表現が極端で断定的になる傾向があり、ときに過剰に他罰的となり他人を傷つける。また逆に他人からの言葉が配慮のないものに思えて深く傷つくことがある。内容が少しきついかもしれないと思うメールを発信する場合には一晩くらい待ってみた方がよい。家族や友人とのリアルな交流の中で相談するのがよい。

C ひきこもり

 不登校の生徒がたいてい時間を割いているものは、ゲーム、ネット、携帯である。これには次の二つのタイプがあり対処が異なる。

1.もともと対人関係の不全があり、学校に行きにくくなり、ネット社会に慰めを見いだした場合。このときは親が携帯とコンピュータを取り上げるとますます追い込んでしまうといわれる。

2.もともと対人不全はなく、ゲームにはまり込んで不登校になった場合。これはゲームとコンピュータを親が管理することで解決することがある。

D ネットや携帯で特殊な仲間を見つける

 現実の生活では知り合うことのできないような、珍しいタイプの人と知り合うことができる。いい面でもあり、悪い面でもある。

E 陰湿ないじめ・性的暴力的情報・犯罪への入り口

 たとえば違法薬物の入手方法が分かるし使用マニュアルも手に入る。援助交際への入り口にもなる。ネットは犯罪へのハードルを低くしている。いじめの温床にもなっている。

F 子どもの養育に関する悪影響とゲーム依存・ネット依存

 小児科医の指摘によれば、まずテレビやビデオに育児をさせていることが問題とされる。これでは感情応答性がうまく育たない。小学生頃からはゲームに熱中することになり、これには親も手を焼いている。典型的には夜更かし・朝寝坊、朝食抜き、遅刻、忘れもの、保健室登校、不登校になる。そして本格的に一日中ロールプレイイング・オンラインゲームに向かう。このタイプのゲームは終わりもなく続く。チャットの要素も入っているので完全な孤独でもない。時々は主催者側のイベントが入り退屈しない。他の参加者と共同の行動をとることがあり、そこにはオンラインゲームなりの人間関係ができる。これは現実の人間関係よりも薄く一面的なもので人間関係の練習にはならないといわれるが、一方で現実の人間関係で行き詰まった人にはすこしほっとできる場所であるとも言われる。

 ネット中毒やゲーム中毒さらにはゲーム脳といわれることもある。ゲームに熱中しているときの脳の働きを調べると、脳のきわめて一部分しか使っていないようである。映像処理部分だけが活発になっていて、前頭葉の人間らしい思考は停止していることが分かる。ゲームに時間をとられるので、共感性や社会性を発達させる機会が失われる。

 小さな子どもの場合に、ゲームをしている間、親がそばで一緒に画面を見て、親自身が感情応答をして見せること、また子どもが画面に反応したらそれに対して親が感情反応するというようにすれば多少はゲームの害を改善し、共感性を養うことができるかもしれないとする提案がある。

G リアルとバーチャルの区別

 事件の関係者についてリアル(本物)とバーチャル(仮想)の区別がはっきりしていないとする議論がある。ゲームの世界に慣れてしまい、現実を歪めて把握しているのではないかとする。そのことを正確に診断するのは精神病理学の領域になるがマスコミではしばしばいわれることである。

 しかし発達途中の子どもの場合には現実と仮想の適切な混同は健康な現象でもあると考えられる。なりきって遊んでいる。大人になっても、両者の区別を適切な場面で適切にできていればそれで良いわけで、場面によってはほどよく人格退行して、区別を曖昧にして安らぐことも大切なことである。犯罪に関係して取り調べを受けるときは拘禁反応になってかなり精神病的な状態になり、両者の区別ができなくなる場合があるとも考えられるので注意を要する。

H 極端さ

 農村非匿名集団から都市匿名集団に移り、さらにネット社会になって人々の欲望も表現も一段と激しくなった。度胸を試すようなことになりやすく、一部は犯罪や自殺と関係する。

I 垂直的ヒエラルキーとネット的水平

 人間の集団構成の原理は原始的になればなるほど垂直的ヒエラルキー型である。一方、ネット社会は原則的に水平的平等になじむ構造である。このずれから生じる違和感はヒステリックな言葉になったり、非常識な行動になったりする。これが極端さや過度の単純さにつながる。

J 同質性・情報ハイウェイ

 たとえば将棋では、情報を手に入れやすくなっているので誰でも勉強できる。しかしみんな同じことを勉強してきたので強さも作戦も弱点も同じ。情報ハイウェイを降りた場所からが難しいといわれる。同質性集団特有の集団心理にとらわれやすい。

Ⅱ ネット社会と自己愛

 ネット社会では性格の中に自己愛成分を多く含んだ人が増える印象があるとの報告が数多くある。まず自己愛の特徴から見ていこう。

A 自己愛性格の特徴とネットが性格の自己愛成分を増やす理由

 自己愛性格の特徴は「傲慢、賞賛欲求、共感不全」かつ「臆病」とまとめられる。ネット・携帯社会だけではなく、少子化、第三次産業へのシフト、大量消費社会、情報化社会などが複合して現代人の心理変化の原因になっていると思われるが、ネット社会に関していえば、現実社会に比較して簡単・確実・迅速・非共感的であることが特徴である。「少年は大人ではなく大きな少年になった」「僕は僕のすべて」「自分王国の自分様」などと言われる。社会的には無力であるが、そのことを自分の欠点と認識しない。「大人は堕落している」イメージがあり、権威は一般に脱価値化される。

 現実社会は不確定で、他人の事情に左右され、複雑で遅く、自分の予測した反応が返ってこないし、我慢が必要である。ネット社会のほうが居心地がいいと感じる人がいても無理はない。

  そのようなネット社会に慣れた人は「苦労しない、待たない、確実を求める、我慢ができない、何かあれば他罰的、自己中心的で共感しない」という態度になる。これが自己愛性格を培養する。これは大量消費社会の消費者の態度でもある。対人関係の原型が客と店員になっていて、他人には傲慢で共感不全であると映ることになってしまう。

  「お互い様」が消えてしまい、「相手の立場に立ってみる」ことが少なくなった。自己愛的な他人に接するとき、自分も自己愛的にならないと傷つけられるだけだから、社会には自己愛成分が増えていく。電車の客席のマナーなどを想像すれば分かりやすいが、自己愛的な態度は周囲の人をも自己愛的にしてしまう。傲慢さの背景に臆病が透けて見えることも指摘されていて、自分の利益を守るためには臆病な人ほど過度に攻撃的にならざるを得ないのだろう。

 まとめていえば、母と子、店員と客、コンピュータとユーザーの関係で生きていることが、自己愛性格を培養していると考えられる。

B 幼児的自己愛が保存される理由

  一般に幼児的自己愛は母親との関係で発達するが、子どもが成長して社会化する時点で、傲慢ではなく、社会的に容認される程度のプライドになり、ひそかな自尊心になる。酒の席などで意外な自尊心を打ち明けられて驚くこともある。

  自己愛の中の空想的全能感は幼年期に少子化核家族化の中で養われ、母親という培養器の中で肥大する。そのあと学校集団で自分を相対化して見つめることで、自分の位置を確認し、客観的な自分と主観的な自分を一致させる。しかし最近では母親という培養器からネットという培養器に直接移植されてしまい、自己愛が幼児的なまま修正を受けずに保存されてしまうようである。ネット社会は母親に代わって自己愛を培養し続ける。学校や会社に行っている場合にはほどほどに周囲に合わせて溶け込んでいるのだが、たとえば心が傷つけられる場面などで自我機能が退行すると、肥大した自己愛が前景に立ち現れる。

C 自己愛性人格障害

  自己愛の問題が極端になると自己愛性人格障害となる。アメリカの研究・統計用診断基準であるDSM-Ⅳ-TR での自己愛性人格障害の項目が代表的であるが、最近ではこれを細分化する試みもあり、代表的なものは次の自己愛性人格障害のサブタイプである。

1.無自覚型 oblivious narcissism
他者の反応に無頓着。高慢で攻撃的。注目の中心であろうとする。送信者であるが受信者ではない。他者に傷つけられる感情をもつことを受け付けない。DSM-Ⅳの自己愛性人格障害の診断基準はこのグループとほぼ一致する。

2.過剰警戒型 hypervigilant narcissism
他者の反応にひどく敏感。抑制、恥ずかしがり、目立つのを避ける、注目の中心になることを避ける。他者の話に軽蔑や批判の証拠を注意深く探す。容易に傷つけられる感情を持つ。恥と屈辱の感情を起こしやすい。

  これらを寒さと痛さの間で妥協点を見つけなければならないハリネズミの比喩でいうと、1.針が長いので他人を傷つける。他人の痛みが分からない。従っていつも寒い。2.他人を刺すことはないが他人の針を過剰に痛がる。従っていつも寒い。こうしてみるとネット社会は1.のタイプにぴったりだということが分かる。2.のタイプはつらいので彼らはネットに長居はしないが、何を言われているのか気になるので継続的に警戒して、結局傷つく。無自覚型が一人いればそのまわりに過剰警戒型が何人かいて、困ったなと思い息を潜めている。さらにその外側に、ネットなんかタダのネットじゃないかという健全な人たちがいる。

D 幼児的自己愛成分は本来どのように発展すればよいのか

  幼児的自己愛成分が成長して次の段階に進まないのにも理由がある。幼児的自己愛成分は本来、発達の途中で社会的に肯定されるアイデンティティへと進展して解消される。そのときに社会の側が用意している主要な価値観がアイデンティティのガイドラインになる。現代日本ではかつての主要な価値観の場所に自分らしい自分やオンリーワンの自分になるという「自己実現」がある。自分のアイデンティティは本当の自分になることといわれて、その先に進めない。進めない状態がモラトリアムである。価値観の多様化の中では主要な価値観の消失も当然だともいえるが、アイデンティティ獲得が難しいことも確かである。

Ⅲ ネット社会の病前性格とうつ病

  うつ病では病前性格が様々に論じられてきた。これを系統的に論じたい。
 うつ病の病前性格について、笠原嘉先生は「熱中性、几帳面、陰性感情の持続、対他配慮」とまとめている。わたしはこれを「熱中性、几帳面、陰性感情の持続」と「対他配慮」の二つに分けて考えたい。前者は生物学的な指標であり、後者は社会的習慣の問題である。

A 対他配慮の現代的変質

  昔は利他的対他配慮であったものが、いまは自己防衛的利己的他者配慮と見える。他者との関係の仕方そのものに変化が生じていると思われる。積極的利他的対他配慮は報われない可能性を含み、その場合大きく傷つく。現代ではそのような利他的対他配慮ではなく、自分が傷つかないように、他者との距離をとっておくという防衛的な意味での他者配慮に変化している。
  ハリネズミの比喩で言えば、昔は針に刺されて痛くてもいいから、他人を温めたかったし温まりたかった。現在は寒くてもいいので、自分が傷つきたくないし、相手を傷つけたくない。昔は温かい方が大事、現在は針の痛みを避ける方が大事という印象である。豊かな物質社会と少子化の結果といわれる。
 対他配慮は社会的成分であるから、社会のあり方と教育の結果であり可変的である。対他配慮が報われなくてエネルギーを使い果たし、結果としてうつになることは過去に多かった。それは社会の支配的な価値観として、対他配慮が主な徳目であり、エネルギーを注入すべき対象であったからである。部下を思いやる責任感の強い上司で30代以降に発症するメランコリー親和型うつ病である。しかし最近は対他配慮の故に疲れ切るということは多くはない。むしろ、他人からの配慮がないから自分はうつになったと20代が語っていて、向きが逆になっている。

B 熱中性、几帳面さ、陰性気分の持続は生物学的指標である

  一つの神経細胞に対する反復刺激を考えてみよう。キンドリング(てんかん)や履歴現象(統合失調症)のように、次第に反応が大きくなるタイプの細胞がある。これは躁状態と関係しているので、反復刺激に対して次第に大きな反応を返す特性を持った細胞をM細胞(Manic:躁的)とする。熱中性、高揚性、精力性といえる。
 次に、反復刺激に対して常に一定の反応を呈する場合がある。これは強迫性傾向と関係があり、A細胞(Anancastic :強迫症的)と名付ける。几帳面の成分である。
  反復刺激に対して急速に反応が減弱するタイプの細胞があり、うつに関係するので、D細胞(Depressive :うつ的)と名付ける。弱力性で陰性気分の持続である。

C 病前性格の説明

 以上のMADの三種の細胞特性がどのくらい、脳のどの部分に分布しているかが病前性格の一部を説明する。

1.M細胞成分が多い脳は双極性・循環性の性質を帯びる。BP(Bipolar mood disorder:双極性気分障害)ⅠやⅡがこのタイプになる。BPⅠは躁状態+うつ状態、BPⅡは軽躁状態+うつ状態である。病前性格が循環気質で躁うつ病になったという場合、このタイプである。
 未熟型うつ病は循環気質に自己愛型が混合し全体として未熟なものである。
 社会全体が軽躁状態であるとき、BPⅡの軽躁状態は隠蔽されてしまう。明治時代から高度経済成長期に至るまで、BPⅡの場合に診断はむしろ単極性うつ病とされた。戦争に向かう熱狂や組織への献身は軽躁状態だったのだろう。適応のよい状態とは実は軽躁状態様態であることもよくある。

2.M細胞成分よりもA細胞成分が多いものは強迫性成分が強くなる。メランコリー親和型うつ病はこのタイプである。反復刺激によりA細胞が疲れきって、機能停止する。そのときにはM細胞も疲労して休止していることが多いので、うつ状態になる。M細胞が早く回復すると躁うつ混合状態になる場合もある。
 非定型うつ病の遅発・非慢性タイプはメランコリー型に近く、若年発症・慢性型は病前性格の描写がまだ不十分である。
 職場がメランコリー親和化して自己愛型未熟型に発生するのがBeard 型うつ病である。

3.M細胞成分とA細胞成分が相対的に少ないものはディスチミア(長期に続く抑うつ傾向)になる。ディスチミアの人たちは、表面的には自分について自信をなくしているのだが、その内面には誇大的自我を持ち続けていることも多く、ときにそれが露出することが観察される。一方的な弱気ではなく、自己愛成分を強く保持していることが多い。退却神経症や逃避型うつ病はこのタイプである。

4.執着気質はM細胞成分とA細胞成分が多いものである。両者が機能停止すると、機能停止と回復の時間的プロフィールによって、躁、うつ、躁うつ混合状態、さらにそれと強迫性障害の混合が見られる。

 以上まとめると、熱中性の強いBPⅠ、Ⅱ。几帳面成分の強いメランコリー親和型うつ病。熱中性も几帳面もないディスチミア。熱中性も几帳面も強い執着気質。どのタイプからも、昔風の対他配慮は失われていて、変質した自己防衛的利己的対他配慮が働いている。

 昔は圧倒的にメランコリー親和型うつ病が多く、一部が循環気質から発展する双極性障害であった。現代では個人の中でも自己愛性成分が増加し、社会全体としても自己愛性成分が増加していると思われる。自己愛成分が増えるに従ってうつ病像が変化しており、ディスチミア親和型うつ病の割合が増えている印象を抱いている。

D 自己愛肥大を基盤にしてディスチミア親和型うつ病が発生する

  「傲慢、賞賛欲求、共感不全」の人が世間を生きていたら、傲慢なので人に嫌われ、期待した賞賛が得られず自分は幻滅する。結果として人間不信になる。対人関係で傷つくのでうつにもなりやすく、その場合は従来のメランコリータイプとは違ううつ病になるといわれていて、新しいうつ病のタイプについていくつか提案されている。

  その中の一つのタイプにディスチミア親和型うつ病がある。ディスチミア親和型と名付けられているものの、ディスチミアが病前性格や病気の基盤であるとは言われていないので注意を要する。これは若者に多く、うつそのものは軽症であるが治りにくい。他罰的で逃避的、仕事よりもプライベートが大事。集団との一体化は希薄で、学校時代には不適応はなかったが、会社には不適応という例が多い。やる気が出ないと言い、自分を生かせる職場を希望する。役割に固執せず、むしろ自己実現を価値の中心においている。このタイプの背景には自己愛の肥大があるのではないかと考えられる。

E うつの発生メカニズムと治療

 どの病前性格の場合でも、M細胞がぎりぎりまで活動して反応を返している時期が躁状態であり、M細胞がダウンして機能停止するとうつ状態になる。しばらく時間が経てばM細胞は活動を開始して、しばらく刺激が続けば躁状態になる。これを反復するのが躁うつ病の特徴である。

 治療はM細胞とA細胞の回復を時間をかけて待つこと、自殺を防ぐこと、再発を防ぐためにメカニズムを教育することである。

Ⅳ ネットリテラシー教育(ネットにおける読み書きの作法)

 薬物療法、精神療法は省略するが、これらと並んで大切なのがネットリテラシー教育である。インターネットや携帯の世界では独特の仕組みがあること、読むときの注意点、書くときの注意点、それら三点を心得ることがネットリテラシーである。これは学校でも家庭でもできることなので心がけたい。各種の提案があるが、ここでは私なりのポイントを述べる。

 発信側として大切なのは、ネット上での匿名は一時的なもので結局は誰が発信したのか分かってしまうのだと心得ることである。個人的メールについては、言葉の多義性について注意するのが良いと思う。声も表情もなくても誤解が生じないか慎重になることである。言い過ぎは後悔のもとである。誤解する方が悪い場合もあるが、誤解されないように充分注意する責任もある。

 受信者としては情報の極端さとまじめ度を見分けたい。世の中全体の見取図が自分の内側にあれば、情報の極端さを評価できる。それは真偽とも好悪とも関係のないもので、ただ世界の全体の中ではどのくらい極端かというだけである。オーム事件で学んだように、極端でかつまじめだったら、注意して扱う方がよい。情報が断片的であることはネットの短所である。知識や判断の総合的な見取図を形成するためには読書と友人が大切である。