Sailing/Rod Stewart

イージス艦のあまりにも不幸な事故について、
そしてその後のあまりにもずさんな取り扱いについて、
友人は憤激している。

自動車は左、
人は右と教えられていて、
青は進め、
赤は止まれだけれど、
大きなトラックが近づいていたら特別警戒すべきだし、
特に相手が軍艦なのだから、危険視すべきだ、
だって乗っているのは、自衛隊だ。

車を運転しているけれど、
時々対向車線をはみだす車もある。
眠くなったときの大型トラックに多いことは当然である。

その場合、相手が悪いと言って済ませられる問題ではないのである。

自分が失うものは命で、
相手が失うものは、職位と、減給処分とか、そんなものだ。
違いすぎる。

信じてしまってから、相手がルールを守らなかったと言っても、
無力である。

実際、近くを航行していた漁船のひとつは、
このままだと衝突すると判断して、
ルールとは逆の方向に舵を切った。

自動車で言えば、
相手がこちら車線に乗り入れてきたので、
自分は逆に相手車線に乗り入れて、
難を免れたようなものだ。

ヨットを乗っている人に聞いても、そのようで、
要するに、自損してしまっては何にもならないので、
そこは適切に身をかわすしかないのだという。

東京湾が過密であることは知られたことで、
オイルタンカー、貨物船、漁船、フェリーなどで一杯。
軍艦は大きいし、困ったものだ。

問題はいろいろあって、
まず、相手が漁船だから平気でぶつかったのではなくて、
相手が核弾頭であっても、平気でぶつかって、爆発していたに違いないということだ。
漁船を避ける技術があったなら、
核弾頭も避けられるだろう。
命のかかった漁船を踏み潰してしまったくらいだから、
核弾頭とも衝突していただろう。

要するに、使いこなせない乗り物に乗っていたのだ。
レーダーで衝突を回避するとか、無線その他の信号で危険回避するとか、
最悪、衝突しないように、直前に警告を発するとか、
いろいろな方法がありそうである。

至近距離にまで近づかれてしまったのは、
大きな失敗である。
漁船のふりをした、敵国性の兵器かも知れないのだ。

要するに、「使い方を知らないおもちゃをバカが運転していた」わけで、目も当てられない。
敵国からのミサイルを打ち落とすどころの話ではない。
自国の漁船と衝突しているのだ。
「使えないこと」は明白である。

一体何のために買って、なんのために使っているのか、
ハワイまで行って帰ってきて、何だと言うのか。
国防と何の関係があるか。

簡単に言えば、アメリカに買えといわれて、防衛省がどんぶり勘定で買っただけだ。
競合もないのだから、言いなりだろう。

そんな船だから、直進したほうが、周囲の船としてはありがたいはずだ。
急に進路を変えられたりしたら、困る。

Rod StewartのSailingはfreeの歌だけれど、
東京湾はぜんぜん自由ではない。

*****
Sailing/Rod Stewart
(セイリング/ロッド・スチュワート)

I am sailing, I am sailing,
Home again cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
To be near you, to be free.

I am flying, I am flying,
Like a bird cross the sky.
I am flying, passing high clouds,
To be with you, to be free.

Can you hear me, can you hear me
Thro the dark night, far away,
I am dying, forever trying,
To be with you, who can say.

Can you hear me, can you hear me,
Thro the dark night far away.
I am dying, forever trying,
To be with you, who can say.

We are sailing, we are sailing,
Home again cross the sea.
We are sailing stormy waters,
To be near you, to be free.

Oh lord, to be near you, to be free.
Oh lord, to be near you, to be free,
Oh lord.

多くの男性は、To be near you, to be free.の部分が納得できない。
フリーなら、ひとりの女のそばにいるはずがないだろう。

これはそうではなくて、
ロミオとジュリエットを考えてもらいたい。
困難にもかかわらず、
ジュリエットといることが、自由なのだ。

そのような場面はいくつも考えられる。

たとえば、
妻とか家庭とかから自由になって、
愛人のそばに行きたいと言う歌なら理解できると言う人もいたが、
後半は、神の讃歌になっているのだから、
愛人が家庭を壊すのはまずい。

Oh lord, to be near you, to be free

神よ、あなたのそばに、この世のすべての束縛を逃れて
となるのだろう。

I am sailing, to be with you, to be free.

We are sailing, to be near you, to be free.

この二つがきれいな対句になっているのが楽しいのだ。
そして愛する人の近くに行くのも、神の近くに行くのも、
本質的には同じでfreeを求めることなのだと言うのである。

I がWeになって、神を求める話に転化する。

who can sayはNobody can say.ということらしい。

全体として、隣人愛と神への愛はつなぎめなくつながるということで、
うまくできている。

現状を否定して出た旅は、
お前がそばにいる自由、
神の近くにいる自由、
自由に終りはなく、ただ神に向かい、お前をそばにおきたい、そういうことだろう。