適応がうまくできないとき、主に自律神経系の症状を呈する。持続的緊張状態の結果、交感神経の過剰活動となり、症状発現に至る。いったん症状が出ると不安が強まり予期不安から症状の固定化、さらには悪化を招く。治療は当然適応改善であるが、それは環境と個性の関係の問題であり、適応が当然よいとも言えない面がある。昔から議論されている論点であり、たとえば次のように表現されている。
—引用開始
適応ということを心的な健康のただ一つの基準にした医学的精神療法はハインツ・ハルトマンまで遡る。 (中略) 彼は言う。「その生産性、人生を楽しむ能力、心の平衡が保たれていれば、個人はよく適応してると言える。失敗とは、適応の欠如のことである」。(中略)社会制度自体がそもそも適応に値するかどうかは問われないのである。(中略)
その文化が適応する価値があるかという問いは、深刻に問われない。もしあなたがそれに適応していれば幸福であり、健康であるが、もしそうでなければ病気であり、障害を起こしているのである。かくして適応は、それが適応すべき文化の価値をあらかじめ密かに受け入れている。
ケン・ウィルバー著『進化の構造 上』 P556
—引用終わり
こう言い切っては単純化しすぎであると思うのだが、敢えて言いきった上で、ケン・ウィルバーは適応主義を批判する。わたしはハルトマンの言い分を吟味していないし、部分的な引用を信用してはいけないと思っているが、ケン・ウィルバーの言葉は正しいと思う。
しかし、かなり真剣に問い直したとして、「その文化には適応する価値がある」と納得できる、よい面が多分にあるはずだと思う。また、社会の側に問題があると結論を出したとしても、そこから先、どうすればいいというのだろうか。
ケン・ウィルバーは体制を鋭く批判する知性として社会体制に組み込まれていると言える。この社会にかなりうまく適応して機能していると言えるのではないか。彼は執筆することが自分の天職だと「ダイモン」にまつわる話の中で述懐している。
とりあえず困っている人に、そもそもこの文化に適応する価値があるのかなどと言ってみても話が迂遠すぎると思う。このあたりは文筆家と臨床家の立場の違いということになるのだろうか。100年か1000年かかけてケン・ウィルバーの思考は浸透し実現するのだろう。一方、患者さんたちはとりあえず早くアルコールをやめたいし、過食をやめたいし、虐待と暴力とニグレクトをやめたいのである。
社会を変えるには二つの方向がある。技術の革新などによって社会の仕組みを変えて、その結果人の思考を変化させる方向が一つ。人の思考をまず変化させて社会を変化させる方向がもう一つである。前者は比較的速い変化であるが、後者は時間がかかる。トヨタやマイクロソフトは社会を急激に変えた。結果として人間の思考も変えた。一方、キリスト教の愛の教えは2000年たって、まだまだ静かにのみ人間のこころの変革と社会変革を進行中である。