学生の頃、モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学」に興味があり、しかし内容はくっきりとはつかめないままでいた。仏文のゼミ一覧表を見たら、モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学」講読会があった。顔を出してみた。学部学生と大学院生がいるようだった。「次の一節は(ざっと見渡す仕草5秒くらい)特に問題はないようですね。質問はありますか」仏文としても哲学としても内容を理解するなど当然と言うことらしい。説明などしない。翻訳も出ているし学生同士は下勉強が済んでいるらしい。一同から質問はなし。教授は「5行目××という単語はいつ頃から使い始めましたかね」優秀な学生「19××の○○の論文です。それ以前にも使ってはいましたが、このような限定された意味内容ではありませんでした」「そうですね。賛成です。」「次に行きましよう。この一節も問題ないですね。○○という概念は少しずつ変わっているようですね。」優秀な学生「このあと、××年頃から△△の方に着手して、そちらの概念が入ってきますから」。教授「ラテン語の使い方としては、◇◇のような方面の意味もある言葉です。」著作を理解するとはこのようなことなのかと思った。用語や概念についての年表がすでに頭にできているらしく、その当時の交友や政治状況まで、勘案しつつ言葉の意味を決定するらしかった。理系とはかなり違う世界だった。
「知覚の現象学」の翻訳に携わった精神医学者小木貞孝はまた文筆家・加賀乙彦として知られている。圧倒的な秀才で、この人にしかできなかった仕事かもしれない。「フランスの妄想研究」という入門的な本があり、これは初心者にもやや分かりやすい。このような秀才の通ったあとに、凡庸なわたしたちに何ができるというのだろうか。